厳選した国産信州牛すきやき、しゃぶしゃぶ、焼肉の宗石亭[長野県須坂市]

ギュウブロ

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2010年10月23日
坂田本治郎伝 壱

俺は明治三十二年十月一日豊丘村金田で生まれた。
父は坂田今朝吉、母はふで。
父は祖父富吉の長男(次男は市場。現在地に分家)
母は仁礼村仙仁高橋治郎右衛門の次女。
高橋家長男駒之助は教員。県会議員。県参事等も歴任した。
しかし、駒之助は子供が無いので弟菊之助を準養子とし、女五人男三人の子福者であった。
その長女きよが後に俺の兄、五一郎の嫁である。

俺には二人の兄と三人の姉があり、長兄の五一郎は家督相続。次兄今朝冶は早逝した。
長女あさじは日瀧村高橋の井浦五右衛門の長男軍治に嫁入りしたが、身持ちの悪い亭主に泣き、遂に一子、五七郎を連れて離別した。
其の間坂田家は、軍治の酒醸造開業にあたり、資金作りの為に、新町にあった須坂商業銀行に金田の土地山林を担保に入れた為、後に主人の破産の連帯保証人として、大きな損害を受けた事は、俺の幼心に深く沁みこんだ。

次姉とみじも軍治の口入で古平徳蔵(ブリキヤ)に嫁したが、折り合いが悪く離婚。
塩野の山上家と再婚したが亭主の死後、負債整理にあたり、とみじ並びに子供三人を引き取り、須坂馬場町に住まわせた。

三姉はる江は、須坂新町牧よねの次男、東京下谷に住む会社員の儀作に嫁したが、十年ほどで亭主に死なれ、世帯をたたみ実家へ戻ったが、間もなく米子の柳原家へ再婚。

三人の姉、共に全部不幸の生涯だったように思う。

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