厳選した国産信州牛すきやき、しゃぶしゃぶ、焼肉の宗石亭[長野県須坂市]

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2010年11月09日
本治郎伝 六

負債の発覚以来、開業の窮地に発奮し、夫婦共働きに精を出し、借入金の返済を試みた。

幸い、直ぐ近所に隠居した、灰野のお袋さんの協力で創業八年目にして借入金は完済し、家族六人揃って成田のお不動さんへ、御礼参りした時の嬉しさは今でも忘れない。

その後、須坂駅の周辺は急速に発展し、我が店の知名度も町内は勿論、周辺町村へも浸透してきたように想う。時は昭和十年の頃だ。

其の頃、宗石町の長老に有田ドラック(新井)宮崎又二郎(宮崎医院祖父)神田速馬、藤沢喜作(元須坂料芸組合書記)それと若輩ながら俺も加わり宗石会を創立。
頼母子講(日掛無尽)をはじめたのが、現在も続いている。

支那事変が起きた(昭和十二、三年)頃、当区第八区から新井さんと俺が区理事として選出され、後の昭和十八年、第八区を東、南、北の三横町に分割。
初代の区長は松葉屋の市川氏、副区長は関野洋服店、依田硯や揺々等、有力者も揃っていた。
其の頃の俺は納税組合長(全区内)で、納入日には松葉屋の下店で事務をとった。
二代目区長、佐藤金左衛門、三代目は村松、四代目が俺で、後の昭和三十一年頃、二期目のお努めをした。

民生委員もやったが、当時の県報で若返り広報を散見し、一期で強引に止めた。

昭和十八年、大東亜戦争が拡大。軍馬の徴発が相継ぎ、補給策として馬産奨励に国は力を入れ、北信畜産組合を改組、馬匹組合と改構。理事となる。
戦時中、田のシツケ時には、農耕馬の斡旋事業を県一勢に行った。度々の県への召集で地域外の友人も多くなり、馬喰の道も一人前の心算りだった。

昭和二十年。終戦の混乱期も静々平勢に戻り、馬匹組合解散。
北信畜産農業協同組合が農協組合法により創立。本格的に菅平高原を開拓に着手。
引き続き理事となり、会計理事の重責を後年昭和四十五年まで担う。
其の間、菅平ゴルフ場用地の貸付や特産の芝草の販売等が、放牧事業以外の特別事業であった。

牧場事業も軌道にのり、一任期中一回は役員視察旅行が実施され、北海道、沖縄、朝鮮等大きな旅行も思い出の種である。

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