2011年02月09日
本治郎伝 七
昭和十八年十二月。太平洋戦争開始から満二年となる。
緒戦優位を保った戦局はすでに逆転し、日本軍は各地で後退を続ける状況となる。このために都会地にある工場の疎開がいよいよ具体化される。
須坂では製糸工場跡の建物・土地に軍需関係企業が本格的な移転作業に取り掛かり始める。
須坂町ではこの時局に対応するために、戦前からの二十五区制を改めて二十二区編成とする体制に、昭和十八年十二月二十三日開催の町議会で議決する。この時に唯一巨大区であった(戸数で全町の17%を占める)旧八区横町区は東・南・北に三分割となる。
昭和十九年一月一日、北横町が発足する。しかし戦時中のためか地元では区発足に伴う行事や式典等の営みは何もなかったように思う。
戦局が拡大し、軍馬の徴発相継ぎ、補給策に国策として馬産奨励に力を入れ始めた国家、俺のような一精肉店の主が国策の一端として長野県下一勢を対象とした、農耕馬の斡旋事業の重責を担う事となる。
しかし、この時代の人脈が後の畜産事業の原点となり、戦後の集荷の難しい時代を乗り切る力となった。
後に店が繁盛店と称されるようになったのも、俺自身が畜産人として一目置かれるようになったのも、この時代あればこそである。