厳選した国産信州牛すきやき、しゃぶしゃぶ、焼肉の宗石亭[長野県須坂市]

ギュウブロ

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2010年10月23日
本冶郎伝 弐

サテ俺の事だが、俺が六才の頃(明治三十七年)日露戦争が初まった。
毎日の様に召集令状が村のアチコチに配られ、毎日その噂ばかりを大人達はしていた。
七才頃だと思うが「ロシア負けた、ロシア負けた」と石油缶(テンコ)を敲いて楽隊行進の真似をして遊んだことを覚えている。

また其の頃だと思うが、ある日門いけの乞食坊主が来て、庭で遊んでいた俺を見て「此の息子は運が良い。
必ず出世して良い暮しをする」とお袋に言ったのを俺は側で聞いていた。
俺は「ヨーシ大人になったらエラクなってみせるぞ」と胸を躍らせた事を今でも忘れない。

大正二年の七月。当時園里尋常小学校は高等科が無く、補習科という準高等科があったが、正規な高等科卒の方が世間通用すると思い、金田から一里余りある小山小学校へ通学した。
その二年目の夏。数年来肋膜炎で苦しんでいた親父さんが遂に黄泉の客となった。
当時お袋が聞かせてくれた親父さんの病気は、土蔵新築の時、裏の山から材木運ぶ際に誤って強く胸を打ったのが原因で発病した、とよく人に話していた。

「大正八年」学校を終ってから後、家で農事に従事していた俺にも徴兵検査が来た。
当時の歌に「ミ徴輸卒が兵隊ならば、蝶々トンボも鳥のうち」それだけは御免蒙りたいと思っていたものである。

徴兵検査 國民の三大義務(明治憲法)
1.兵役 2.納税 3.順法

大正八年の初夏。確か六月下旬と記憶している。朝九時より郡役所で検査開始。
午後二時頃には全員終了し、水兵に合格の発表だ。
其の二三日後、抽選通知があり、クジ一番の大当たり。

さて秋も半ばを過ぎ、十一月に這入ると仙仁や河原の家や幸高で壮行会の意味で招待して貰い、入営の近づいた事を痛感する。
十一月二十九日「道は六百八十里、長門の浦を船出していく」の楽隊で送られ、坂田町にあった役場で川上村長の激励の言葉を後にして、馬車で長野駅に至り、県内勢揃い京都一泊翌三十日早朝出発、目指す舞鶴(西舞鶴)の旅館に投宿。
十二月一日入団式後は直ちに軍服に着換え、新水兵さん出来上り。

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坂田本治郎伝 壱

俺は明治三十二年十月一日豊丘村金田で生まれた。
父は坂田今朝吉、母はふで。
父は祖父富吉の長男(次男は市場。現在地に分家)
母は仁礼村仙仁高橋治郎右衛門の次女。
高橋家長男駒之助は教員。県会議員。県参事等も歴任した。
しかし、駒之助は子供が無いので弟菊之助を準養子とし、女五人男三人の子福者であった。
その長女きよが後に俺の兄、五一郎の嫁である。

俺には二人の兄と三人の姉があり、長兄の五一郎は家督相続。次兄今朝冶は早逝した。
長女あさじは日瀧村高橋の井浦五右衛門の長男軍治に嫁入りしたが、身持ちの悪い亭主に泣き、遂に一子、五七郎を連れて離別した。
其の間坂田家は、軍治の酒醸造開業にあたり、資金作りの為に、新町にあった須坂商業銀行に金田の土地山林を担保に入れた為、後に主人の破産の連帯保証人として、大きな損害を受けた事は、俺の幼心に深く沁みこんだ。

次姉とみじも軍治の口入で古平徳蔵(ブリキヤ)に嫁したが、折り合いが悪く離婚。
塩野の山上家と再婚したが亭主の死後、負債整理にあたり、とみじ並びに子供三人を引き取り、須坂馬場町に住まわせた。

三姉はる江は、須坂新町牧よねの次男、東京下谷に住む会社員の儀作に嫁したが、十年ほどで亭主に死なれ、世帯をたたみ実家へ戻ったが、間もなく米子の柳原家へ再婚。

三人の姉、共に全部不幸の生涯だったように思う。

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