「おたくではみそすき焼をたべられるのですか?」というお客様からのお問い合わせを何件か頂戴しております。
某テレビ局からも問い合わせがありました。
しかし、残念ながら当店ではみそすき焼はメニューにございません。二種類のすき焼を同時にご提供するのは不可能です。
しかし、地元飲食店の皆さんが町おこしとして積極的に取り組んでいらっしゃるようなので、応援としてエピソードをご紹介します。
ご存知のように須坂は味噌・醤油醸造業の会社数が人口の割合に対して多い町です。
その昔、信州の田舎では来訪者にご馳走をもてなすにも素材があまりにも少なく、せめて飛び切りの味噌汁を提供したい、という思いが地元の人々の心の中にありました。
そしてその後、須坂の製糸業の大発展とともに来訪者と工員たちの大量な需要により高品質な味噌が作り続けられ、今日に至っています。
「須坂市は、寒暖の差が大きく、みそ造りに大切な発酵・熟成に適した環境にあります。その風土を生かして、市内醸造元では良質の国産大豆と代々受け継がれてきた優れた技法を用い、心を込めて現代人に好まれる”みそ”を造っています。」(須坂市観光協会みそ料理乃會より)
さて、当店の創業者坂田本冶郎は、青年時代に海軍軍人として横浜を拠点にしていたようです。
大正時代当時の横浜といえば、文明開化の食べ物「牛鍋」を商う店が大層繁盛していたことが伺えます。
その当時の信州では、まだ牛肉そのものが流通さえしていなかったかもしれません。
兵役を終えた本治郎は生家の農業ではなく、家畜の取引と流通販売まで、そして飲食店も併設している牛鍋屋を開業しようと試みます。
これは当時の飲食トレンドの先端です。しかし、牛肉が食卓にのることは一般的でなかったようです。
祖父本治郎は横浜で牛鍋を食し、さぞかし感動したことと思います。
そして、その牛鍋は味噌仕立てだったかもしれません。
横浜だけでなく、全国的にその傾向があったようです。素材が良くなり、牛肉の消費量が増えるとともに味噌風味の割り下は醤油仕立てになってきました。
これも時代のニーズだったのだと思います。
当店の創業当初の割り下は「味噌」を使用しておりました。正確には醤油ベースに味噌風味を加えたものです。
これは須坂の人々が味噌好きだったからではなく、素材に要因があったと想像しています。
戦中戦後の食糧難の時代に祖父は軍用馬の払い下げの地域担当者の重責を仰せつかり、食肉の供給に一役かいました。
穀類不足の食糧難の時代の須高には、牛や豚よりも馬が多く飼われていたのです。
(続く)